ランチア デルタインテグラーレ EvoluzioneU ギャロッピングエレファント

参号機:1994(H6)年式 2014(H26)購入

  

   

 

H26年に購入した、マイカー9代目。デルタとして3台目である。前の弐号機は、当初からエンジン不調が続き、なかなか思うように動かせなかったのだが、単身赴任により屋外駐車が多かったこともあり、急激に塗装なども劣化していたうえ、バンパーが劣化により破損したりして、かなりくたびれた状態となってしまった。
この状況を打破すべく、レストアも検討したのだが、ざっくりしたところで350万以上の見積もりだった。流石にここまでは一度で予算確保が難しいことから、程度の良さそうなものに更新するのが得策と考え探していたところ、運良く94年式の紺が発見できたので、この際思い切って購入することにしたのだった。
現在、細かな部分も再生して、より新車に近い状態とするため、コツコツと手を入れていこうかというところ。
しかし、デルタに乗り続けて15年、初号機は約15万キロ、弐号機は約5万キロ乗って来た。3度目の正直というか、悪くなりそうなところはあらかた理解している。
自分の車として買うのは、これが最後かもしれない。集大成として、良い状態に仕上げたいと思っている。


弐号機 
1994(H6)年式 2009(H21)購入→2014(H26)更新

    

H21年に購入した、マイカー8代目である。初号機が走行距離18万5千キロを超え、カムシャフトのメタルが損耗して異音が発生し、またデフなど下回りもベアリングなどから音が発生するようになったことから、車両更新に至った。
弐号機の走行距離は7万8千キロくらいだが、お休みしていた車らしく、各部に不調が見られ、更生を目指したが、なかなか良い状態とならず、約13万5000キロで手放すこととした。次のオーナーにより、立派に更正して、日本国内で生き延びてほしいと願っている。
【その後】
ストリートライフさんに聞いたところによると、この個体は、ジムカーナ等競技用にして次のオーナーさんのところで暮らしていたが、去年、また売りに出され、アメリカへ渡ったそうだ。国内からまた1台、デルタが減ったのは残念ではある。(2018.7.15)

初号機
 1994(H6)年式 1999(H11)購入→2009(H21)更新 

         
H11年に購入した、マイカー7代目にして初の外国車。ぱっと見は初代VWゴルフに似ている、というのもデザイナーが同じくジウジアーロ氏だから当然か。フロントグリルに付くHFのマークはランチアの高性能仕様(ハイファイの略と言われている)として赤いギャロッピングエレファントとともに有名。フロントフェンダーにもHFマークが付いていて、小さいギャロッピングエレファントが4頭づつ描き込まれているが、これは正規ディーラー車の日本仕様となっている。並行輸入もの(本国仕様)ではここに丸くて小さなサイドマーカーが付いている。型式認定取る時に、本国仕様はサイドマーカーの視認性が悪いと見られたのだろうか。

  

リヤスポイラーの角度がなぜにこんなのかはマニアにはお約束だが、知らない人はフーンて感じ。標準では水平か45゜くらいの角度を付けてあるが、大体はWRCのワークスマシンと同じく純正オプションのアタッチメントを取り付け、ほぼ直角にする場合が多い。うちのデルタも納車された時からこの角度になっていた。

近くから見ると結構ワイドボディ(1770mm)。2000ccの車でありながら小型車の枠をはみ出している。普通車になったのはエボルツィオーネから。なお、外観でエボルツィオーネTとUの判別点は、フロントグリルの赤ライン(エボTはなし)、ルーフモールの色(エボTは黒、エボUはエアロ形状でボディ同色)、フューエルキャップリングの色(エボTは黒、エボUはアルミ色)、ホイールのサイズ(エボTは15インチ、エボUは16インチ)。エボルツィオーネとは「進化」という意味で、エボルツィオーネUは、93年に登場した最終進化型。しかしその前年92年にランチアはチャンピオンを取ったもののワークスは既に撤退していたのだった(92年はジョリークラブからの出走:ただし実際にはワークスのバックアップもあったよう)。 

       

ブリスターフェンダーはインテグラーレから。インテグラーレとは「総合した・無欠の・完全な」という様な意味。エボルツィオーネTからはブレーキ用エアアウトレットが追加された。ただし本当に通気しているのはエボルツィオーネUだけ。
ボンネット上のパワーバルジは16Vからで、シリンダヘッドが大型化したことによる対策。エボルツィオーネからはさらにエアアウトレットが増えている。フェンダーやボンネットの造形の変化にもちゃんと意味がある。
                       
ヘッドランプも本国仕様のエボリューションTからは同径の4灯ヘッドランプだが(空気取り入れ面積の拡大のためと言われている)、日本仕様は以前と同じ異径の4灯となっている。これもヘッドランプの型式認定の関係かと思われるが、輸入車に対して規制緩和が進んだとは言え、今でも本国仕様をそのまま日本国内で走らせるにはいろいろ大変な手間がかかるようだ。

   

このくらいのアングルで撮った写真が雑誌などでは多いように思う。デルタがWRCに登場したのは、1985年のWRC最終戦RACラリーで、その時はグループBのデルタS4(038)としてであった。デルタS4は市販形デルタとは似ても似つかないモンスターマシンで、1986年ヘンリ・トイボネンの死亡事故により悲劇のマシンとして記憶に残ることとなった。グループB廃止により急遽1987年から始まったグループAだったが、各ワークスが撤退や戦えるベースマシンに苦労する中、デルタのグループAマシン「HF4WD」は13戦8勝という圧勝でチャンピオンマシンとなる。毎年デルタは進化し続けたが、1992年の第11戦サンレモでイタリア人のA・アギーニが最後の優勝を遂げたのを最後に、現在まで沈黙を保っている。(ランチアのワークス体制は1991年までで、92年はジョリークラブからの出走)
しかし、デルタS4とは違う方向に進化した、グループAホモロゲモデルとして見たエボリューションUのデザインは、スポーツカー然とした037ラリーともまた違う、「闘うマシンらしいデザイン」を発揮している。


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History of LANCIA