僕がランチアデルタを所有するに至った話し

話は、1976年にさかのぼる。僕は初めて「モーターマガジン」という雑誌を買った。それ以前、自動車というものにははっきり言って興味がなかったわけだが、時代は「スーパーカーブーム」であった。
この、池沢さとし氏の描いた「サーキットの狼」に端を発する社会現象は世の子供達の心を掴み、遠くまで自転車をこいでわざわざ車を見に行くということもあたりまえのようになっていた。
特にイタリア車はその派手さで有名であり、特にランボルギーニカウンタックとフェラーリ365BBは代表的な2台であった。
ところでそのモーターマガジンの中に「世界のラリーカー」という記事があった。1976年と言えば、何を隠そう「ランチアストラトス」がワールドチャンプになった年だ。翌77年もストラトスは快進撃を続け、ワールドチャンプを取ってしまう。当時の国産勢ではB210サニーやカローラ30、ダルマセリカというところが走っていた。これらと比べればランチアストラトスはスーパーカーそのものである。これだけ素性が違う車を同じ土俵で戦わせるというのがそもそも無謀なことなのだ。
いずれにしてもランチアストラトスという車は、当時の僕に「公道で世界一速い車」として記憶に残ることとなったのだった。
スーパーカーブームが去って何年かが経って僕はマイカーを持つことになった。モーターマガジンはたまに買っていたが、自分が買える車はというと当然中古であり、しかもその車ときたら排ガス規制で性能なんて二の次という車しか選択肢がなかった。それが初めてのマイカーS48年式コンソルテであり、S50年式ブルーバードUだった。
その頃、友人の家によく遊びに行ったのだが、その道すがら気になる自動車屋があった。アルファロメオの中古がごちゃごちゃと並んでいる店だった。アルファのジュリアやスパイダーなどがひしめきあっていた。
あんな車に乗ってみたいなと思いながらいつもその前を通っていた。
しばらくして自動車整備の学校へ2年間行くことになった。ブルーバードはその間にボロボロになっていったが、就職したある日の仕事帰り、右折してきたトヨタのハイラックスに側面から突っ込んでしまった。
結局ブルーバードは車検も近くなっていたことから廃車となり、初めての新車スカイラインR31を買うことになった。R31はかのスカイラインGT−R以来久しぶりの6気筒DOHCエンジンを搭載していたが、ハイソカー志向が強すぎて人気はいまいちだった。足回りもR30に比べると良くはなっているのだが、いかんせん車体が重くてエンジンもFJ20のような凶暴さが無くて、非常にジェントルな車だった。
まだその頃は若かった。やはり「走る」車に憧れていた。再び職を変えた後、職場の同僚のI氏が一冊のカタログを見せてくれた。「ランチアデルタ16V」だった。
I氏自身はBMWに乗っていた。同じ職場にはアウディに乗っている人やフィアット105TCに乗っている人も居た。しかし僕は「ランチアデルタ」に惹かれた。
当時、ランチアデルタはガレーヂ伊太利屋が取り扱っていた。ランチアは「公道で世界一速い車」というイメージが僕の頭の中にあった。I氏とデルタのメカニズムについてよく語った。最後の合い言葉は「欲しいけど高いんだよなあ」だった。
欲しい。買いたいと思った。しかし、その当時新車価格は約450万だった。外車としては高くはない。しかしそんなお金はなかった。
いろいろ考えたあげく、がらりと趣が違うスカイラインR32GTSを発注してしまった。追い金120万はローンだった。それが精一杯だった。
ローンを払いながらも、エアロやホイール、タワーバーなどニスモ製品で固めたGTSは峠に高速にと走り回った。連続3日間で2800km走破という荒技にも余裕の車だった。
ところがある冬、金沢の友人のところへ遊びに行こうとして長野県内を北上中、峠の下りでホンダのアコードとオフセット正面衝突をしてしまった。まあ雪道を夏タイヤで走行していて、こちらがセンターラインオーバーだったのだから、自業自得ではある。
結局、友人のところへ遊びに行く約束をキャンセルして、その晩は北陸自動車道のSAで泊まった。冬用のシュラフを積んでいたのでよく眠れたのだが、除雪車の音で目が覚めた。雪のなくなった高速をチェーン修理しながら家にたどり着いた。年末の慌ただしい中だったが、元勤めていた修理工場に泣きついて1週間で修理してもらった。
しかし直った後もスピードへの挑戦は止まらなかった。変わったのは雪道を反省してスタッドレスタイヤを買ったことだった。
スカイラインに乗っていながらも、ランチアデルタは依然気にはなっていた。近くの取り扱い店にカタログを貰いに行った。その頃になると、ランチアはオートザムでも扱うようになっていた。
時代はデルタエボリューション1の時代になっていた。しかしバブルまっただなかのこの時代、デルタの新車価格は600万を超えていた。これはとても庶民に手が届く存在ではなくなってしまった。
外車中古車雑誌を見ても、500万くらいの価格を付けていた。しかも扱っているのは東京とか大阪ばかり。
現車を見ることもままならないようでは買うことも出来ない。
僕は悶々としながらも、デルタのラジコンを購入し、走らせていた。
そんなころ転勤で飛騨高山へやって来た。やはり雪道の悪夢は捨てがたく、早々に車を買い換えたいと思った。候補はまず四駆にしたいと思って、ランチアデルタ、パルサーGTI−R、インプレッサWRX、ランサーエボリューションだったが、その頃職場にまた1人の外車好きが居た。N氏という。彼はVWゴルフやシトロエンBXに乗っている筋金入りのマニアだった。彼もまたデルタが好きな一人だった。わざわざ静岡のイーグルオートまで車を見に行ったりしていて、かなり買う気がありそうだった。しかし彼は結局買わなかった。というのは彼の求める色は白のソリッドカラーでエボ2の新車なのだが、そんな車はもう市場に流通していなかった。
僕はデルタなら中古で考えていた。しかし中古でもエボ2は450万ほどしていた。200万台では8Vしか買うことはできない。ローンを目一杯組んでも8Vというのは納得できない。せめてエボ1が欲しいと考えるようになっていた。
しかし結局数字上のパワーとコストパフォーマンスでインプレッサWRX−RAを買ってしまったのだった。
RAはラリーベース用で218万という破格の値段だった。ベース車のくせにアルミホイールが付いているし、シートも通常のものと同じものが付いていた。パルサーやランサーのベース車に比べると豪華装備で街乗りにも耐えられそうだった。
時代は1993年、ランチアデルタがジョリークラブで最後の闘いをしている年だった。
インプレッサは当時の国産では一番の車だと思った。その証拠に全日本選手権でもチャンピオンに輝いていた。それどころかWRCでもワールドチャンピオンとなった。快進撃の始まりだった。しかし僕には疑問があった。確かにインプレッサは速いけれど、雪道では乗りにくいのだ。パワーが空回りしている感じで挙動も唐突のような気がしていた。峠の登りではすぐテールが流れるので、車が向きを変えて視界が開けるまでアクセルを開けることが出来なくて、もどかしかった。
しかし、慣れてしまうとより速い車を求めてしまうらしい。ついに1996年、インプレッサSTIバージョン3に乗り換えてしまった。
STIバージョン3は初代に比べると断然乗りやすい車だった。あらゆる場面で初代の性能を上回っていた。しかしパワーをもてあます感覚はさらに強くなっていた。なんといっても280PS、35Kg−mである。
僕の心の中に「僕に使いこなせない車が僕にとってベストな車なんだろうか」という気持ちが起こった。
またしても、ランチアが気になってきた。時代は1999年、デルタの製造終了から5年が過ぎている。
「エボ1ならそろそろ買えそうだ」
僕は休みの度にデルタを置く店を探した。その頃、「ガレージワタナベ」がデルタを大量に扱っていると知った。僕は思い出していた。若かりし頃、友人の家に行く時いつも通った、あのアルファの店だということを。
勇気を持って店に行くことにした。店の外観は怪しいけれども(当時はまだショールームが無かった)、あのバブル崩壊後の時代を生き抜いた店であるからして、少なくとも経営は固いのだろう。
事前に確認した広告でエボ1の白を見に行った。ところが、「この車ねえ全塗装だからあまりお勧めしないよ」と言う。売る気がないのかと思ったが、こちらも整備士のはしくれ。見てみると確かに塗装の跡がはっきり判り、内装もそれなりの感じ。隣にあった赤のエボ1は綺麗だが、やっぱり高い。
「もう1台黒があるよ」と言うので、試乗させてもらうことにする。
初めて乗るランチアデルタエボ1だったが、クラッチもSTIバージョン3より軽く、思ったより乗りやすい。サスも思ったより固くていい感じ。ぐいっと回ってみると、とても反応が早くてしかも安定している。コレはいい。
バイパスでガーっと加速するとさすがにインプレッサほどではないが、安定感はいい。もうこれでデルタの虜になっていた。試乗を終わって、あまりにも「乗りやすい」を連発するので、営業の人が首を捻っている。「普通はクラッチが重いと言われたり、発進もスムーズにできない人が多いんですけどねえ」とおっしゃる。お褒めの言葉と受け取った。
とりあえずその日は乗っただけ。しかし営業の人は「絶対エボ2の方がいいです」と言う。「うちの仕事が増えるからできればエボ2にしてもらいたい」とも言う。しかし約100万の差は大きい。
とりあえず家に帰るが、予算のふんぎりが付かないので保留にする。
営業の人は熱心に電話をしてくれるが悩みはつきない。嫁さんに「車買っていいか」と聞いた。
その頃、実はポルシェカレラ4も安くて、7年落ちのカレラ4とエボ2が同じくらいの値段だった。
「ポルシェとランチアだったらどっちがいい?」と嫁さんに聞くと、「ポルシェは誰でも知ってて世間体が良くないからやめて」と言う。なるほどそういう話しもあるかと思うが、「納得して買うなら後でぶつぶつ言わないようにして」とも言われた。
デルタは10年近くも欲しいと思っていた車だし今までの車を選ぶ時もいつも候補に挙がっては消えていった。もうデルタも製造終了して5年。コンディションのよい車はだんだん少なくなってくるだろう。最後のチャンスかも知れないという気持ちが強くなっていた。
そんな頃、ガレージワタナベから「エボ2の紺が入りましたが見にきませんか」と電話がかかってきた。
さっそく見に行ってみると、まだ来たばかりで何もしてない状態。いろいろ手直しは必要なところがあるが致命的なところはない。紺色は不人気色なので、白や赤よりかなり安い。ディーラー車でもあるし信用して購入を決断した。インプレッサの下取りは安めだが、飛騨で買い取りに出すよりはいい値段を付けてくれた。追い金も虎の子の定期を下ろしてなんとかなりそうだ。
納車整備の箇所をあれこれ細かいところまで指定して、契約書にもきちんと書いてもらう。中古車を買う時の鉄則だ。ところがさすがにガレージワタナベも商売が堅い。きちんきちんと手順を追ってお金を振り込まないと動いてくれない。
車庫証明は書類だけ作ってもらい、自分で警察へ持っていく。
そしていよいよ登録の日、午後から仕事を休みもらって飛騨の陸運局で車両の交換をした。
契約書とおりに納車整備がされているか、チェックする。とりあえずはOKだ。
こうして、紺色のデルタは僕の手元に納車された。