基本というものはバカにするためのものではない
と、言ったのは誰だったか忘れたが、世のクルマ好きと言われる人の中にも、基本的なことを知らない(または忘れた)人がかなりいるように思う。昔、自動車関係の仕事をしていたが、今その世界から違うところからふと見たりしたときに、「ん?」という様なことを言っている人がいるのを聞くと、逆に「えっ、今はそういうものなの?」と、一瞬信じてしまいそうになる。でも真面目に受け取ってしまう人も居るだろうから、発言には責任を持ってほしい。もっとも自分自身間違ったことを言う可能性もあるので、他人のことをとやかく言えるようなものではないが・・

ところで、車のカタログなどによく載っている、意味が書いてないメカ解説はどうなんだろうと思う様になって久しい。型式認定か何かのときに必要だから仕様書を作るのはJISにも載っているし自社の製品が優れていることをPRしたい気持ちも判るが、そんなマニアックな話は一般の人の90パーセントほどは理解していないのではないんだろうか。「トラクションコントロール」や「スタビリティの向上を図り・・」などと書いてあってもそれがどういう構造や意味なのか、まずわからないだろう。だいたいサスペンション型式などで「ドディオン」などと書いてあっても「わー珍しい」と感じるのはメカマニアか、クラシックカーマニアぐらいだろう。一般の人はその構造がなぜ珍しく、なぜこんな変な構造が採用されているのか全く判らない。でも、かつてランチアデルタのカタログを見た時、エンジンの項目で、「4Syl Otto」と書いてあったのには不覚にも感動してしまった。「ジーゼルさんは今でも良く聞くが、オットーさんも良かったね」という感じで・・しかーし、Ottoの意味を知ってるのは熱力をかじった人しか知らないだろうに。でも、こんなつまらないことでも知っていると何かと感動できる機会も多くていいのだろうか。感動する事が少ないと言われる時代の中で、「マニア」と呼ばれる人は幸せなのかもしれない。

僕は分類でいえば「機械マニア」だろうが、目標としているのは自動車評論家やプロドライバーの視点でなく、普通の人の視点で見た時のようにわかりやすく語れる者でありたいという事。難解な用語をただ羅列してみたり、感覚だけで評論・批判するのでなく、なぜこんな設計になっていて、なんでそれが採用されたのか、を説明できるようになりたいと思っている。物事にはすべからく理由があるはずなのだ。例えば「○○○車に比べて△△△車はカッコ悪い」と言うのは簡単だが、それはただ単に自分の好みを述べているだけで、なぜ△△△車がそういう形に製作しなければならなかったのかという背景まで理解して発言しているとは思えず、とても理性的な言葉には聞こえない。プロの評論家と呼ばれる方ですら、そのあたりのことを考えずに書いているんじゃないか?と思える方も居る。

また、雑誌などで語られてる話はたいていが「ハイレベルな部分」での話で、では自分が通常その車に乗った時(たとえば通勤で使ったりする時)にはどうなんだ、ということはあまり書かれていない。レース専門誌ならまだしも、バイヤーズガイド的な雑誌がほとんどなのに不思議なことだ。キャッチーな記事を載せておけば雑誌が売れると考えられているようでさみしい。本当に大切なことはもっとほかにあるんじゃないかと思うのは僕だけか?

ところで「基本」の話。特に最近は、電子制御やハイブリッドなど電気なしには語れないが、やはり車などは「機械」というのが基本だと思うわけで、その部分がしっかりした物がやはり良い。つきつめればシャシ(フレーム)とエンジン(モーター他含む)という話になるが、どうも周りの人々の意見を聞くと、一般的な選択基準といえば「装備(機能)とくに内装と燃費」というイメージが強いような気がして・・まあ、それも確かに重要なファクターではあるけれど、それだけではちょっと寂しいなと思うのは僕だけだろうか。それ故、ここのところ自動車が好きという人が少なくなったのではないかと思われる。
経済優先や豊かさの追求という考え方はひとつの「正義」だろうが、これに偏るのは良くない。多様性を容認するというのが、いいのでないのかな。


機械の基本
機械って何だ?と聞かれたとき普通なら、からくりの様なしかけを思うだろう。しかし、機械の意味はもっと深い。「機」と言うのは、細かい働きをするからくりという意味の外に、物事のはたらき、物事の起こるきっかけ、大事なもの、かなめ、という意味がある。「械」は、器具、しかけ、というような意味。つまり機械という言葉は、「マシン」と言う意味だけでなく、「システム」という意味も含んでいるわけだ。この「思想」ともいうべきものを具体的に形にしたものが、道具としての機械。
機械は突き詰めていくと、部材と接合材からなる。そしてもっとも重要と思われるものは「摩擦」だろう。ネジという機械要素も、摩擦がなければ成立しない。ものを形作る基本のところにこれがある。クラッチにしてもそう。摩擦が無ければ働かない。しかし、摩擦は少ない方がいい。摩擦というのはエネルギーにも関係ある。つまり、摩擦が少ないということは抵抗が少ない。抵抗が少ないということは、小さいエネルギーで動く。
究極は、エネルギーなしで動くものなのだろう。しかし、そのようなものは今だかつて現れていない。
エネルギーを与えずとも動くもの。それは「意志(思想、心も含む)」と言うものしか僕は知らない。機械の最終目標はこれではないだろうか。
これがはっきりしている機械はいい機械だと言えるだろう。

モノつくりの基本
いつの頃からか分からないが、「作り手の顔がみえる」品物が少なくなったように思う。お宝鑑定の中島さんじゃないが、「いい仕事してますね〜」という言葉の中には、それを作っている人の苦労している姿がそこから伺えるのだろう。しかし、ロボットで作ったような無機質な製品群には、確かに使えて便利だが「感動がない」ものも多いように思う。それもひとえに「魂」が込められていないからではないのか。
精神論を言っているのではない。ここでいう「魂」とは設計思想のことだ。モノに対する思い入れが最近は少なくなっているのではないかという疑問がある。モノに拘らないから、いいかげんなものでも良しとしてしまう。
しかし、この発想は危険だ。つまり、モノを大切にしなくなるということになっていってしまうからだ。
何かを大切にしたいという気持ち、これが廃れたらすべての事が無意味なものだという考えに流れていってしまう。モノだけではない。自然環境にしてもそうだし、生き物すべてに対する考え方にしてもそうだ。
最近の「モノ」は、それこそ「機械的」に作られている。
しかし、よく考えてほしい。モノを使うのは「人間」だということを忘れてはいけない。「人間工学」というものがあるが、いくらすばらしい機能を持っていても人間に使いこなせないものなら意味がないというものだ。

機械を作る人、操作する人、修理する人
昔といっても30年ほど前、自動車の免許を取る時の教科書は「法令」と「構造」に分かれていたはずだ。ところが、今や自動車はメンテナンスフリーになってしまったかのように思われていて、構造に重きを置くことはなくなった。
しかし、自動車は「機械」であることを忘れてはいけない。最近は規制緩和により、車検もやさしくなったし、少しくらい改造していても警察も強く言わなくなってしまった。しかし、これの意味を考えると、「使用者責任」の拡大ということ。もし、整備不良な自動車で事故でも起こそうものなら、それは使用者に責任があることになる。
機械というのは、当然作った人(メーカー)がいる。そして、使う人がいる。使えば壊れる。それで修理する人がいる。修理する人は使う人の意見を聞き、メーカーにそれを伝える。メーカーはその意見を聞き、次の機械の設計に反映させる。こういうサイクルで、機械というものは進化していく。

今の自動車社会は、そういう連鎖がうまく機能していないのではないかな。少し心配に思う。