環境について語りましょうか

 上高地(小梨平)

最近、環境問題がとり沙汰されている新聞記事を良く見る。いわく、ジーゼルが悪いだの、ダイオキシンが
どーだの、自然破壊がどうだの、ゴミ処理施設反対がどうだの、という論評だ。
しかし、よく考えてほしい。そんな新聞記事に書いてあるのは、ほとんど「都会の人」の意見だ。都会の人の
都会の理論による都会の為の記事だ。
新聞を含め、マスメディアは確かに事実を報道しているのだろう。ただし、すべての事実を報道している訳で
はない。記事になる、都会の人の目を引く記事のみを報道しているにすぎない。
ただ、新聞を見ているだけでは本当の全体像は見えてこない。
話を戻そう。なぜ、こんなことを書いたかというと、僕は現在の環境に関する一連の風潮に疑問を持ったから
だ。つまり、「環境について騒ぐ人は多いが、身近な環境については他人事」というように見受けられるからだ。
例えばゴミを出したとして、ゴミはその後どう処理されるかは10人の内1人くらいしか知らないだろう。
しかしこれは本来知っておかなければならないこと。ゴミ処理事業所の課長さんの言葉が耳に残っている。
「ゴミ処理事業というのは究極の税金ムダ使いです。こんな仕事は本来無くさなければならない仕事です。」
身近なことからよく考えてみたい。

昔、某テレビ局で「グリーンキャンペーン」というのをやっていたのを思い出したが、(今でもやっているのだろう
か)あれは良い企画だと思った。
当時は石油ショックや光化学スモッグの問題もあり、真剣に環境対策を議論していたし、実際に排ガス規制
も強烈にやっていた。当時の自動車メーカーは必死だったはず。
しかし、今はどうだろう。環境を声に出してはいるが、笛吹けど踊らず、乗用自動車は排ガス規制の緩い大型
車に主力を移している。そこへもって来て、グリーン税制を導入しようとしている。
しかし、グリーン税制を導入すれば乗用車の大型化志向はさらに進むだろう。そして、古い自動車を大切に扱い、
いい燃費で走らせている人にも容赦なく増税するのだろう。
つまり、排ガス総量としては、全然抑制されなくて税収だけ上げようということだ。この状態では京都議定書で
のCo2の削減目標は達成できそうにない。
そこへもってきて、先日は森林のCo2吸収能力の扱いでヨーロッパと対立している。
ヨーロッパは真面目にCo2の削減に取り組んでいる(ように見える)が、日本やアメリカはすでに削減をあきら
めてしまったかのように見える。
自動車でもそうだ。ハイブリッドがもてはやされているけれど、実際あれがどれだけ役に立つのか。ポーズを示
すには格好の素材かもしれないが、性能はたいしたことはない。よっぽど3リッターカー(ヨーロッパが提唱して
いる低燃費車、燃料3リットルで100km走るもの、ディーゼルも有望視されている)の推進をした方がCo2は
削減できるだろう。もしくは、排ガス規制も総量規制にするべき。大量に自動車を生産するメーカー、大きい自
動車を作るメーカーが率先して真剣にCo2対策に取り組んでほしい。

しかし、いまの日本は、便利な生活は追求して副産物は知らないふり、モノは作るが、処分の方法は考えない
という考えに成り立っていて、非常におかしい。こんな世の中になったのも、大量消費、華美な装飾・包装が引
き金になっているのだろう。高度成長期からバブル時代の負の遺産かもしれない。

モノに対する考え方も疑問。モノを大事にしない。大事にできる(したいと思う)品質のモノがない。使い捨ての
モノが多すぎる。

こんな方向へどんどん進んで行っていいのか。
人間、なまければどんどん泥沼に墜ちていく。楽をすれば、だんだん悪いことも覚える。そしてそれが普通のよう
になってしまう。
せめて自分だけでも、モノを大切にし、壊れれば修理して使い、今ある自然を維持し、循環型・自己完結型の生
活を目標として、子供たちにも伝えていきたい。

便利な生活に憧れ、人々が都会に移住しなければ、現在の環境問題もこんなにはならなかったのにと思う。今
は日本全国、どこにいても不便な生活というのはかなり少なくなったし、情報網、流通網もすばらしいものになっ
た。都市に住み続ける必要性は薄れて来ているように思うが。
自然に近い生活に戻るチャンスだと思う。


不便な生活のすすめ
実のところ、僕は不便な生活というか昔の生活が好き。この飛騨というところは、まだかすかに昔のなごりがある
土地柄で、例えば、スーパーに行っても、野菜など、ザルに入って売っていて、新聞の袋に入れてくれるとこがあっ
たり、肉や魚にしても、専門店があって、昔みたくロウ引きの紙にくるんでくれたり、それこそ商店街がまだ機能し
ている。田植えも手植え。子供は裸足で田圃を走り回り、泥だらけ。
しかし、そんな昔に近い暮らしの方が環境には良いのでないか。つきつめて言えば自然に近い暮らし。ゴミでも、
この辺りは生ゴミなど、田や畑に入れてしまう。それだけでもゴミは少ないはず。ゴミも肥料となり、作物が育つ。
土は汚くて嫌いという人は多いが、その土から美味しい野菜が出来るということを皆忘れている。
先にも書いたが、便利ということは堕落と表裏一体。
便利を追求するのも良いが、不便なことを知っていないと便利なんだということが分からない。
便利な生活しか知らないと、災害などで不便になったとき、何もできない。
危機管理という面からも、不便な生活というものを勉強しておくことはとても重要だと思う。

それにしても、昔の人は賢かったというか、自然と密着した暮らしをしていたというか、言ってみれば「自然に逆ら
わない暮らし」だったのではなかろうか。もともと、大自然の力の前には人間は無力だ。火山の噴火、地震、大洪
水。どれをとってもそれを自在に操る技術を開発した人はいない。
ならば、予測して被害を最小限にしようという話にはなるが、最近も見ての通り、対策が後回しになっていたところ、
予測もしていなかったところに大災害が発生している。皮肉なものだ。
天災は忘れた頃にやってくる。本当にそうだと思う。

今の世の中は、便利なものが満ちあふれていて、その最たる物が「電気モノ」。しかし便利ではあるが、トラブルが
あったときには全く用をなさない。電気が切れたときに何が動くか。それは「機械モノ」ですよ。自家発にしても、自
動車にしても、電気がダウンした時のバックアップは機械。言い方は悪いが、電気がない時代、不便な時代に主力
だったもの、今から言うと古くさいもの、取り扱いに注意が必要で少し危険なもの。それがいざという時に役立つ。

このホームページにも「基本について」というページがあるが、不便な生活というのは、基本に忠実な生活、最低限
の線の生活。ひょっとしたら、ムーミン物語に出てくる、スナフキンのような生き方。
スナフキンは、古ぼけたリュックサックを持っている。持ち物は最低限の炊事用具、テント、そしてハーモニカ。そして
この少ない荷物から最終的に1つだけ選ぶものはハーモニカだという。
ハーモニカは心を癒す機械だ。究極のところで役に立つのはハートとそれに応える機械ということなのだろう。

まあ、ここまで極端でなくとも、山でのキャンプ生活はそれに近いものがある。持ち物は、テント、寝袋、コンロ、ランタ
ン、食器兼用の鍋くらい。

山でキャンプをしている人を見ると、「この人達は災害があっても生き残れるな」と思う。